加養浩幸の生い立ち(その15)

昭和58年冬、「ディオニソスの祭」の練習がはじまった。

はじめて生徒に楽譜を見せて、音源を聴かせたとき、ある生徒が「こんなにいっぱい音があるのに、なんであっという間に終わっちゃうんですか?」と聞いたという。無理もない話だ。

ここで話を加養先生に戻そう。昭和59年4月、加養先生は東京音楽大学に進学、トランペットを専攻する。千葉商業高校を卒業後、実家のパン屋を継ぐためにいったんは他の一般大学に進学したが、音楽が捨てきれず、親を説得して音楽大学進学を決めた。

音大受験の直接のきっかけを聞いてみると「中学校時代の同じトランペットの先輩が音大に通っていて、自分が高校時代から一緒に練習することがよくあり、その中で『おまえも音大で十分にやれるよ』と言われ、はじめてやってみようかという気になった。」とのこと。当時のトランペット奏者加養浩幸の一番の印象は、何と言ってもその「音色」だ。とかくトランペットの印象といえばハイトーンであったり、派手さであったりするものだ。しかし加養先生のすごさはやはりその音にあったと思う。柔らかく、深いその音は、日本人離れしていた。

そんな音大1年生である加養先生が、広澤先生とともに「ディオニソスの祭」に挑んだ。当時の広澤先生のエピソードを一つ紹介しよう。

加養先生が体育館でディオニソスの合奏をしていると、そこに広澤先生が遅れて入ってきた。広澤先生は私が座っていたマットの上に寝そべり、目をつぶって聴いていた。長い時間顔を上げないので、寝ちゃったのかなと思ったその瞬間、ムクッと起きておもむろに「加養ちゃん、音が一つ足りないんだけど」と一言。すると加養先生が「ああ、2ndサックスがいないよ。」私にはわからなかった。加養先生も凄いが、広澤先生も凄いのである。

当時の演奏はもはや私の理解を遙かに越えていた。「うまい」とかいうレベルではない。「なんだこりゃ」の世界である。広澤先生、加養先生、1年前の悔しさを晴らすべく、夏のコンクールに挑むのである。