加養浩幸の生い立ち(その12)
~読者の皆様、大変大変長らくお待たせし、申し訳ございませんでした。~
昭和57年秋、加養先生、廣澤先生を中心とした金管アンサンブル「昭和の森ブラスアンサンブル」の練習が始まるとともに、土気中吹奏楽部も少しずつ動き始めました。そのいきさつは、加養先生が土気中吹奏楽部の現状を見て、廣澤先生に「俺も手伝うから、バンド、頑張りませんか」と声をかけたことにはじまります。
当時の土気中吹奏楽部について筆者である私の記憶はそんなに鮮明ではないのですが、下級生の女の子が先輩の男の子を「おい、カマキリ!!」と呼びつけていたことは覚えています。ようは、あんまり一生懸命やってはいなかったのでしょう。ちなみに昭和57年夏のコンクールではリードの「サスカチヤンの山」を演奏し、県大会で銀賞でした。
その秋から加養先生は土気中に通い始め、二人三脚のバンド指導が始まりました。時に、廣澤先生28歳。加養先生19歳。
読者の皆様の予想通り、バンドはメキメキ力をつけていきます。当時のバンドの様子について加養先生はこう語っています。
「廣澤先生も順応性が高く、毎週末、土気中に行くたびに上達しているのが実感できた。」
その気になった二人は、翌年、夏のコンクールの自由曲にリムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」を選曲、代表を目指してさらに本格的な練習が始まったのです。
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